Wool’s Loogs

うるです。思うままに書いてます。

学問のすすめ–2編–

 

 

 

どもどもこんばんは。

炭酸水を飲むとお腹が空く、うるです。

 

 

 

今日は学問のすすめの第2編会です。

 

 

まず前座として、、「学問」についてですが、

一般生活において「勉強が好き」というと学校で習う教科や、

小難しい参考書を読み漁るような事をイメージしますね。

 

 

ですがこれは福沢氏がすすめる学問とは異なります。

 

福沢氏曰く、

文字を読み書きすること(現代でいう義務教育における座学的なこと)は道具でしかないとしています。

不要ではないがそれだけでは意味がない‘道具’としています。

 

重要なのはその道具を用いて何を学ぶか。

小難しい教科書を読めて、理解できたとしてもそこからの学びがなければ道具だとし、

ここに実学の重要性を提示しています。

 

 

 

 

 

次に、今回のメインテーマ「平等」についてです。

 

まずはじめに、平等と個々の状況が同じか否かは別問題です。

お金持ちと貧乏人、健康的な人と不健康な人といったように状況は個々で異なります。

では何が平等なのか、

個々の命の重みと権利を主張できることが平等なんです。

 

 

現代では当たり前に認められた人権ですが、本書が書かれたのは明治時代です。

大名や殿様がいて、平民はそのお偉いさんに命を借りているといった考え方が残っていました。

この考え方が基になり「親と主人は無理をいうもの」といった、人権を無視しうるような言葉も生まれています。

 

 

自分があるのは親のおかげだから親の指示に従う。

真っ当に見えるこの考えは危険で、子供が道具として使われる事さえも容認してしまいます。

とは言え、子は親に育てられ、親から学びを受ける立場なため、(自己の利益になることも多いが)道義的に親の言うことを聞き、時に自己の権利を主張することができる訳です。

 

つまり同じ人類同士に上位下位はなく、ひとりひとりの重み(=人権)は皆平等というわけです。

国境を超えても同じ人類同士であり、一家に生まれる兄弟のようなものです。

 

 

ただしこの平等は人権を対象としていて、

個々人の現在の状況が同じというわけではありません。

当然貧富の差や体格、知力に個人差はあります。

この差は自力(才能や努力)で操作できるものもあればそうでないものもあります。

富豪の家に生まれる人や、明日の暮らしも危うい家に生まれる人がその例です。

赤子一人では操作しようのない差があり不平等にも見えますが、これらは全て状況に含まれます。

 

このように生まれや育ちに応じて大きな差がある状況ですが、

個々の持って生まれた人権は全く平等で、裕福な家庭でも貧困層でも変わりありません。

 

ここでいう人権は以下の3つの権利を指します。

1,自己の生命を侵されないこと

2,自己の財産を奪われないこと

3,自己の人格、名誉を傷つけられないこと

 

 

 

封建時代の殿様や大名といった権力者たちは人民から不当に年貢を徴収したり、川渡しや商人達から無賃でサービスを得ていました。

現代においても、政治家や大企業の社長など権力者はいますが、これらの行為は認められていません。

それは自己の権利を主張できるからです。

 

 

人権を侵害しても、金や武力で解決し無罪放免とあっては事実上平等とは言えないように、

等しく持つ平等を社会が担保しなければ何の意味もありません。

 

そういう訳で、実生活において自己の権利を主張するにはある種の枠組み(法)が必要です。

その枠組みは人民を物理的および社会的に守り、時に権力間の帳尻を合わせる働きを持ちます。

人権が認められ、法の整備された社会では権力や財力の弱い人民が守られているわけです。

 

一方で、この社会の枠組みを使用する代償として義務も生じます。

政府は国民の代表として、

国民誰もが自己を主張できる社会の枠組みである法を作り、生活の向上を目的として活動します。

政府が自分たちの代表である以上、政府の決定は自分の決定でありるため従うのが当然です。

また、法によって守られているにも関わらず自ら法を犯すことはもってのほかです。

 

このようにして、権力者と人民の相互的な抑制の仕組みがあることで制度的にも命の重みを平等に扱っています。

故に人民は仕組み(法)に沿って生活しなくてはならない訳です。

 

 

ところが現実社会では無学文盲で善悪の区別もつかず、他人を騙すことに長けていて法を何とも思わない人達もいます。

また、育て方も考えないまま子供を作ってしまう親もいます。

彼らの子孫が増えると国にとっては無益どころか害を成す可能性もあります。

政府が彼らを社会の一員として扱うには道理を説明しても難しいため、その場しのぎとして弊害を力で制圧してコントロールせざるを得ない。

この政府による圧力によって成り立つ社会が専制政治となってしまう訳です。

 

つまり、専制政治といっても主君や役人の利己的な政治という訳ではなく、

国民の無知が不幸な社会を招くケースがあるという訳です。

まさに羊飼いと羊達といった構図で、

悪法と呼ばれるのは噛み癖がある牧羊犬とでも言ったところでしょう。笑

この自体を回避するためにも

政府に見劣りしないよう国民の実力を向上させなければならず、

学問は重要だということです。

 

 

 

 

長くなりましたが、

平等について書き、付随して政治と学問が進められる理由を書きました。

個の記事を書きながら、法律についても人権同様に重さに違いは無いことに気がつきました。

罰則に差はあるものの、法を犯す事自体に差は無いという訳です。

歩行者の信号無視なんかは身近によくありますけど、ちょっとしたことこそ全員で守れたらいいですね。

 

次回は何篇かまとめた記事にしようかと思います。